『Nさんと川上弘美さんの本』

紹介本:『古道具 中野商店』(著者:川上弘美 新潮文庫 2008年刊行)
    『ゆっくりさよならをとなえる』(著者:川上弘美 新潮文庫 2004年刊行)

以前、雑誌『スイッチ』で井上陽水さんと川上弘美さんが吉祥寺の動物園を歩きながら会話(対談)をしていたページがあった。ふたりの会話は深い意味などなく、どうでもいい話ばかり・・・。でも、心から「いいなぁ」「羨ましいなぁ」と素直に思ってしまう。好きな人と、他愛もない、どうでもいい話をしながら歩くことは、なんて素敵なことなんだろう。

Nさんのことを書こうと思う。Nさんと川上弘美さんの本のことを。
私が社会人になったばかりの頃、20代前半に、仕事帰り、ひとりでいく酒場があった。新宿西口から歩いて10分程にあるその小さな酒場は、その昔作家の井伏鱒二氏も通っていたという伝統ある酒場だった。常連の客は大先輩(ほとんど60代、70代以上。現役時代、新聞記者、弁護士、出版社の編集、大学教授といった職業だった人が多かった)で、もちろん私が一番若く、次に若いのが、当時57歳のNさんだった。Nさんは私のことを、「兄(にい)さん、兄(にい)さん」と呼び、いつも酒を呑ませてくれた。Nさんは博識で、ユーモアがあり、小説、映画、芝居、落語、様々な話をしてくれた。Nさんが話すと、まだ読んでいない小説は読みたくなり、映画や芝居はどれも傑作に思えた。「ちょっと行こう」と誘われ 酒場を抜け出し 近くのお寿司屋さんでごちそうになったり、「これ、読んだほうがいいよ」と大江健三郎全集をプレゼントしてくれた。
「兄さん、好きな女ができたら・・・どうしたい?」とNさんが言う。
「好きな女ができたら・・・・」黙ってしまう私。ここでは嘘を言ってはいけない。相手(Nさん)がこう言ったら喜ぶだろう、という小賢しい答えをしてもいけない。もちろん、品がないのは駄目である。「好きな女ができたら・・・」「好きな女が・・・」Nさんにきちんと答えぬまま、私は勤務地が新宿から遠く離れ、日々の忙しさの中、その酒場にも行かなくなってしまった。

それから15,6年たち、再び 新宿の勤務になった時(すでにその酒場はなくなっていた)ふらりと入った居酒屋で 偶然Nさんと会った。噂で、Nさんのことは聞いていた。酒が原因で体を壊し、しばらく東京を離れていたと・・・。
「やぁ、兄さん」三日前に会ったかのように笑顔のNさん。
「お久しぶりです、Nさん・・・」私は席を立ってお辞儀をした。
会わなかった今までことや、最近どうしているか、なんて野暮な会話はなく、厳しさとユーモアが掛け算となった話をしてくれる、変わらないNさんがそこにいた。たったひとつだけ、変わったのは、あびるように、激しく呑んでいた酒の飲み方は消え、一杯の焼酎、水割りをゆっくり、味わうような飲み方になっていたこと。
「なぁ、兄さん、好きな女ができたら、どうしたい?」15,6年ぶりの問いかけがきた。「好きな女ができたら、一緒に歩きたいです」と私は答えた。
「・・・・へぇ、で、天気はどんな?」とNさん。
「天気は、雨、小雨ぐらいがいいですね」私は言った。
「・・・・・兄さん、少しだけだけど、大人になったね。時間がたったね」とNさんは笑った。「兄さん」でなく、「おじさん」になった私だけど、Nさんにそう言ってもらい、無償に嬉しかった。
私は思った。今だったら、Nさんにお酒でも、食事でもごちそうができる。お返しができると。でも・・・・。Nさんはそんなこと望まないだろう、ということもわかっていた。考えて、私は言った。「Nさん、何か本 贈りますけど・・・何がいいですか?」
Nさんはすぐに答えた「そりゃ、川上弘美だよ。あれは才能のある、いい女だ!」
Nさんが誉めた女性作家は、川上弘美さん、ただひとりであった。

Nさんに贈ったのは、当時新刊だった『古道具 中野商店』。
東京近郊の小さな古道具屋が舞台の 年の離れた男女4人の恋と友情の物語。Nさんはどんな感想だったかな?
『ゆっくりさよならをとなえる』も贈りたかったが、まもなく転居し、酒場にも来なくなり、Nさんと、また会わなくなってしまった。
エッセイ集『ゆっくりさよならをとなえる』の中、表題作「ゆっくりさよならをとなえる」を読んでほしかったのだ。
「冬の夜にすること」で始まり、「ハンカチにアイロンをかける」「天津甘栗をむく」・・・と続いていく。そして、最後の行、「ゆっくりさよならをとなえる」まで、読者の気持ちを優しく歩かせてくれる。

あれから、時間は過ぎていく。最近、ふと、もうNさんには会えないかもしれない、と思う時がある。何の理由もないけれど、そう思ってしまう。そして、今でも、川上弘美さんの本を見ると、Nさんのこと想い、Nさんのこと思うと、川上弘美さんのことを思い出す。
いつか、川上弘美さんと呑みたいと思う。季節は秋か冬。美味しい冷酒をゆっくりと。
その時、Nさんのこと、話したら・・・Nさんは嬉しいかな、どうかな?と思っている。


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相原 透

相原 透(アイハラ トオル) 東京生まれ。20余年、都内書店勤務。その後、出版社に転職。 週刊朝日、IN・POCKET(講談社)、銀座百点、公募ガイド 等  雑誌に書評、著者取材・原稿、寄稿多数。 講談社文庫『光二郎 分解日記 相棒は浪人生』(著者:大山淳子 2017年刊行)の解説を書く。 『カタヨリ荘』の住人になれて嬉しくて仕方がない毎日。 好きな作家:池澤夏樹、沢木耕太郎、桜木紫乃、伊吹有喜、大山淳子、柚月裕子