『悲しむには、天気が良すぎる』

紹介本:『冬の運動会』(著者:向田邦子 新潮文庫1985年刊行)*シナリオ集です

ひどく疲れていた。何もかもが嫌になっていた。圧倒的に孤独で、ひとりぼっちで、想い描いていた夢はどこかに消えていた。耐えきれなくて、ある人に「会ってもらえませんか?話を聞いてください!」と電話をかけた。「すぐにいらっしゃい!今からすぐですよ」
毎日新聞社・出版部に勤めているТさんはそう言って、私を呼んでくれた。
あまりに急いで出かけたので、約束の時間より早く、着いてしまった。
竹橋の毎日新聞社の入っているビルの地下街、そろそろ昼食の時間。ランチ代と帰りの電車賃くらいは持っていた。定食屋に入り、日替わり定食を注文した。
ひと口食べる。「美味しい!」。もうひと口「旨い!」打ちひしがれて、身なりも、心もボロボロなのに、日替わり定食は最高に、美味しかった。
青白い顔して、苦くて不味い珈琲でも飲んで、情けない自分をTさんに見せたかったかもしれない。
涙が出てきた。情けなさでいっぱいだった。泣いて、泣いて、食べた。外の天気は清々しいほどに晴れていた。「俺は、とことんかっこ悪くできているんだな」そう思いながら、定食を食べ続けた。

その時、以前読んだ向田邦子さんのシナリオ集『冬の運動会』の一場面を思い出した。
主人公の男が、自分に嘘をつきたくなくて、決まりかけていた就職を辞退し、後悔しながら歩く場面。
菊男(N)「こういう時、雪でも降ってくれたら、粋なのだが、あいにく、冬には珍しい、人を小馬鹿にしたような、あたたかい陽ざしで、(笑う)オレはよくよくかっこ悪く出来ているんだと、おかしくて仕方なかった」(『冬の運動会』シナリオ集より、抜粋)

Tさんは、よく作家と打合せをする時に行く“アラスカ”というお店に連れて行ってくださり、珈琲を飲みながら、私の気持ちを聞いてくれた。話が終わると、Tさんは「大丈夫!あなたはちっとも間違っていない。大丈夫!これからきっとうまくいきますよ。私も力になります。きっと今日のことは、時間が立てば笑い話になりますよ」と静かに話してくれた。そして帰り、エレベーターまで送ってくださり、閉まる瞬間も「大丈夫!今度は私から連絡しますよ!」と手を挙げてくださった。
Tさんのおかげで気持ちが落ちついていた。
向田さんの『冬の運動会』も、あの場面から始まっていくんだ。菊男の人生が始まるのはここからなんだ、と自分に言い聞かせていた。もう20年以上、昔のこと。

その後、Tさんは定年退職され、今はご夫婦で楽しみながら畑仕事をし、地元のボランティア活動を精力的におこなっている。いまでも時々、美味しくお酒をご一緒する。
Tさんは言う。「ふらりと、竹橋に行って、日替わり定食、食べてみたらどうです?」と。
私は、答える。「いやぁ、きっとあの時以上に美味しいことはないでしょうから、やめておきます」と。

 










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相原 透

相原 透(アイハラ トオル) 東京生まれ。20余年、都内書店勤務。その後、出版社に転職。 週刊朝日、IN・POCKET(講談社)、銀座百点、公募ガイド 等  雑誌に書評、著者取材・原稿、寄稿多数。 講談社文庫『光二郎 分解日記 相棒は浪人生』(著者:大山淳子 2017年刊行)の解説を書く。 『カタヨリ荘』の住人になれて嬉しくて仕方がない毎日。 好きな作家:池澤夏樹、沢木耕太郎、桜木紫乃、伊吹有喜、大山淳子、柚月裕子