『くるいきちがい考』

読むべき本 見るべき映画 3

 これほど何度も買い直した本も珍しい。
 よく失くすのでも、汚してしまうのでもない。あげてしまうのだ。大切にしてくれそうな人に出会うと、よくこれをあげてしまう。その度に買い直す。自分もよく読み直すからだ。
 社会生活を送るのにほとほと疲れてしまったときはこれを読む。そうすると「よし、よし、大丈夫だ」と元気が戻ってくる。だから人にもあげたくなる。あげては買い直し。それを20回以上は繰り返しているんじゃないだろうか。
 『くるいきちがい考』(ちくま文庫)という刺激的なタイトルのこの本は、精神科医でもある著者のなだいなださんと、そこに遊びに来た編集者F君との会話という形を取って書かれていて、なにより、読みやすく、わかりやすい。精神という重い題材を扱っていながら、その離れ業をなださんは軽やかに鮮やかにやってみせる。
 何かに触れると手が汚れたと感じて十ぺんも二十ぺんでも洗わずにはいられない、手の皮がひび割れてもまだ不潔に思えて洗いなおす人を異常と思うかい、というくだりが好きだ。それなら、尿検査のために小便を一度入れたコップは何度洗ったらきれいに感じる? 熱湯できれいに洗ってからそこにビールを注いで、さあどうぞと言ったら飲める? それを僕がおいしそうに飲んだら君は逆に僕を異常だと思わない? そんなような例から、なださんは正常と異常という意識について入ってゆく。
 異常ということを決める際に、正常というものをまず考えてみよう、と、なださんは言う。すると、みるみるうちに、典型的な正常という基準なんてあり得ないという、考えてみれば当たり前のことに気づかされて、はっとする。普通や常識という概念は多数決意見に過ぎないということがばれてくる。多数だからといって「正しい」とは限らない。日本はかつて神の国で、戦争することが常識だった時代もあったのだから。
 人間というのは、個性的でありたいと思うくせに群れから外されることを恐がるやっかいな生き物だ。だから、基準を求めたがる。そんな、人間の心の中の数々を、なださんは優しい語り口で気づかせてくれる。
 「くるう」という言葉を規制して、言葉だけを無くしても仕方ない。ただ「いけない」と言うだけじゃイジメが無くならないのと一緒だ。一人一人が自分の心の仕組みを知らなければ何も始まらない。すべては、他人事ではなく、自分の中にあるのだから。そして「気が合う」とか「気のせい」とかという言葉と同じレベルで「気がくるう」ということを考えていけるようになって欲しいと思う。バランスが崩れているなら焦らず戻せばいい。ただ、それだけのことなのだから。
 きちんと考えなければいけない問題に限って人は「お前は考え過ぎなんだよ」なんて言ってつい逃げてしまう。今の時代は特に、自分の思ったことを素直に口に出しただけなのに、「変なヤツ!」という一言で簡単に全部を否定されてしまって傷ついている子がたくさんいるような気がする。そういう子にこの本を読んで安心して欲しいなと思う。本当に平易な言葉で書かれている本なので、小学校高学年ぐらいでも充分に読めるから。ずいぶん前に書かれた本ではあるけれど、まったく古くなっていないどころか、ますますその価値は高まっているような気がしている。先頃リバイバルヒットした吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』と同じように歴史的名著として皆に読んでもらえたらいいなと心から願う。
 そう、みんなが家に一冊ずつこの本を持っていたら世の中もちょっとは良くなるんじゃないかな、なんて僕は思うのだ。

 なだいなださんの本を、ついでにもう一冊。
 『人間、この非人間的なもの』(ちくま文庫)という、タイトルから揺さぶりをかけてくるこの本も、また名著。
 非人間的だと言われてしまうような行為は、実は人間以外の動物は決してしないことだったりするわけで、では「人間的」だとみんなが思っているものの正体は一体なんなのだろうと、私たちが常識だと鵜呑みにしてしまったり決めつけてしまっている事柄をひとつひとつ取り出しては、矛盾をチョンチョンとつついて、自分の頭で一から考えるように導いてくれる。こちらは「くるい」だけでなく、もっと幅広いテーマを扱っていて、またすごく面白い。
 難しいテーマを、誰にでもわかるわかりやすい言葉で、かつユーモアたっぷりに書き続けたなだいなださんという人は、きっと、穏やかで、本当に辛抱強い人だったんだろうなと思う。本当にすごい人というのは、ぱっと見にはすごい人に見えないものだから、きっとなださんもそんな雰囲気の人だったのだろうと思う。物事が良くなるには時間がかかることを誰よりも良く知っている人だから、決して偉そうにせず、ゆっくりと、あきらめずに、にこやかに、さりげなく、でも実はとんでもなく大事なことを、「こういう考え方もあるよ?」と柔らかく言い続けた人に違いない。