俳優の翻訳機

「演技」をめぐる雑想ノート 4

 「自分は現場経験が少ないので、時間を見つけてはいろんなワークショップに積極的に参加しているんですけど」という若い俳優さんが、「ある監督に『なんで何にもやらないの? こんなに俳優が大勢いる中で自分を覚えてもらうには、とにかく何かインパクトのあることをやらなきゃ。指示されるまでぼーっと待ってたらダメだよ』と叱られてしまって、それならと次のワークショップで気合いを入れて臨んだら、今度は『勝手なことはやらないように。台本に書かれてあることだけシンプルにやりなさい』と叱られてしまって。なんか、最近、どうすればいいのかわからなくなるんですよね」としょげていたので、「監督一人一人がそれぞれ、似た言語を話す別の国の人だと思って、その監督専用の翻訳ソフトを早めに作るようにしないとね。同じ言葉でも違う意味のことがよくあるから、直訳せずに、国ごとにこまめに修正するといいよ」と慰めてあげた。
 やりすぎたら抑えるんだから指示を待たずに自分から何かやらなきゃダメだと役者にハッパをかける監督も正しいと思うし、まずは無駄なことをせず台詞だけ言えと言う監督も正しい。群像劇などでは一人一人に細かい指示を与えていたら時間がいくらあっても足りないから、ちゃんとそれぞれ考えてきてもらわなきゃ困るわけだし、だからといって皆が一斉に勝手なことばっかりやりだしたらうるさくてしかたないわけで。監督によって好きなトーンも違うわけで、人間という生き物は始終どこか動いているエネルギッシュなものなんだと言われればなるほどと思うし、日本人はそんなにいつも大仰に動かないし表情を表に出さないものだと言われればそれも一理あると思う。要は、監督の言葉を、言葉通りに受けるのではなく、意図を掴んで、それに合わせていくことが大事になってくる。おまけに監督というものは、だいたい独特の自分なりの表現を口にしているものだから、それぞれに合わせて翻訳ソフトを修正していかなければいけない。
 たとえば、「もっと力強く」と言われて、声を大きくしたら、「違うよ! もっとじっと相手を見据えて、一言一言置くようにだろ」と言われることもあるだろう。その場合、「この監督の『力強く』は、意志や覚悟を見せるべく、静かに一言一言をはっきりと」と、翻訳機をアップデートする。
 違う監督の場合には、「違うよ! 力強くって言ってんだから、もっと声を張り上げてくれなきゃ!」と言われることもある。その場合は単純に「力強く→声を大きく」でアップデート。腹から響く声を力強く感じる人もいれば、喉から絞り出す声を力強く感じる監督もいるだろうし、「力強く」の感じ方はそれぞれ違うわけだから、それぞれの監督専用の翻訳ソフトを、その度に自分で作りあげなければいけないわけだ。
 「力強く」とか「ケレン味たっぷりに」や「濃いめの」のような指示だったらまだわかりやすいけど、「もっとしみったれた感じ」とか「凍てつくような感じで」とかなんて言われると、これはむずかし面白い。とにかくいっぺんやってみて、監督の反応を探り、共通の認識を作っていくしかない。「あの監督、言ってることがわからない」と監督のせいにしないようにね、と若い役者さんには言う。「僕はこんなに凍てつくようにやってるのに、監督が理解してくれない」と嘆いても、あっちが違うと言っている以上、こっちが翻訳ソフトをアップデートしていく以外に仕方ないのだ。

 監督によっては、「もっと、ぼあーっとやって」なんて、擬音だらけの曖昧な言い方をする人もいる。その人独特の表現や造語もある。

「しとしとっと歩いて」
「え、……ひたひたではなく?」
「うん、しとしとーっと」

 こういうのが面白いのだ。
 石井岳龍監督は、昔はよく『ここは鋼鉄のイメージで』なんて言ってたらしい。鋼鉄のイメージってどんなだ。人間ですらないところが石井監督らしい。松居大悟監督は、この間の作品で「もっと、生きる感じで!」なんて言ってた。
 笑っちゃいけない。あちらだって、何かぴったりな言葉はないかと考えた挙句にひねりだしてきた言葉なのだ。真摯に耳を傾け、瞬時に翻訳して、とにかくやってみせるのが役者の醍醐味だと思う。そして、そんなひとことを受けて、監督のイメージ通りどころか、その上をやって見せられたなら、それは俳優として最高の仕事だと思う。