緒形拳さんのこと 2

 緒形さんは、「どうせまた明日これ着るんだし」と、毎日、工員の格好のまま帰って行き、その格好でまたやってくる。「たまには洗濯させてくださいよ」と衣装さんが言っても、「いいんだ」と、毎日ずっと同じ格好でいる。
 これ、書き方によっては、「生活のすべてを、役になりきって過ごす」素晴らしい役者魂なのだが、緒形さんの場合、ただのズボラにも見える。
 仲良くなった僕が調子に乗って「おがっちゃん」なんて呼んでも「なんだー」と普通に返事してくれる普段の緒形さんからは、演技で見せるあの「殺気」や「狂気」は、気配のかけらも見えない。わざと気配を消してるとすればこれまたとんでもないことなのだが、普段のあまりの「素朴」さと「天然」さを見てると、どうもそんな風にも思えない。
 演技に関しても、同じところがある。どこまでが計算で、どこまでが野生の勘なのか、皆目わからないのだ。
 こういうことがあった。
 緒形さんが、「この辺りは、昔、海だったんですよ……」と、土をちょっとつまんでそれを舐め、羽田の街について喋るシーン。僕に背を向けてしゃがみ、訥々と喋るその後姿と台詞回しに、テストから僕はすっかり痺れてしまっていた。身体がじーんとして、リアクションなどわざわざ作る必要がなく、その話を聞き入る人間として、ただその場所に居た。
 そして本番が始まったのだが、「あれ?」と思った。テストと何かが違う。どうも緒形さんは、テストよりちょっと多めに土を口に入れてしまったらしい。そして、それが気になっているように何度もその土を舌から取ろうとしながら、訥々と喋り続ける。そして、驚いたことに、その様が目を引きつけて離さず、もう圧倒的に、テストより良いのだ。もちろんさっきもすごく良かったのだけれど、今度のは「良い芝居」というレベルを越えて、その人間の「実在感」が強く加わり、なんとも言葉で説明できない、複雑で素晴らしいシーンになっていた。
 緒形さんが、本番直前にその方がいいと計算してわざと土を多く入れたのか、それとも間違って多く入っちゃったのかは、わからない。聞いても答えないし。
 緒形さんは、演技について、まず理屈を言わない。監督がそのシーンのプランやイメージを一生懸命説明している時も、ただ黙って聞いているだけで、聞き終わると、「とにかくいっぺん演ってみるから」としか言わない。大御所の俳優さんたちには、いろいろ理由をつけて「やらない」方も多くいたけれど、少なくとも緒形さんはそんなことはなく、とにかく演ってみせる。そして往往にして、それを見た監督は、「あ、なるほど、そうなるのか。それじゃあそれで行きましょう」となることが多かった。ただ、緒形さんが理屈を言わないので、それが、やってみたらそうなっちゃったのか、そうやろうと考えていたものなのかは、わからなかった。個人的には、その場に「生まれてくる」感覚を強く感じていたけれど。
 またある日。スタジオ収録で、緒形さんと佐藤オリエさんとの濡れ場があった。カメラ4台ほどで狙ってリハーサルをしたものの、二人は布団を完全にひっかぶってしまって、もごもごするだけで姿が全然見えない。「緒形さん、それじゃ全然顔とか見えないんで、もっとちゃんと見せてください」とブースからディレクターの声がすると、緒形さんは「だって、恥ずかしい」なんて言う。ディレクターがちょっと怒った声で「恥ずかしいじゃないですよ、もう、ちゃんとやってください、頼みますよ!」と声をかけて本番スタート。するとやっぱり今度も布団がもごもごするばかりで、二人の姿は見えそうで見えない。しかし……、カメラが、なんとか写そうと覗き込むように動いていくと、まるでカメラの動きがわかっているのかのようにもごもごが違う方向にすっと動いたり、一瞬握り合う手が突き出したり、頭のてっぺんだけが見えてまた消えたりして、はっきり姿が見えるより、はるかにセクシーなのだ。ディレクターもそれをはっきり感じたのか、「カット!OK!」と、それだけしか言わなかった。これも、その方がいいと緒形さんが企んだことなのか、本当に恥ずかしいから偶然そうなっちゃったのかは、わからなかった。でも、緒形さんが、良い偶然を生み出す天才、偶然を味方につける天才であることは間違いなかった。
 常に予想を越えていく緒形さんの芝居に、やっぱり只者ではない、と感動していた最終日近く。作品中のクライマックスとも言える長い長いシーンがあった。ここでもやっぱり緒形さんが訥々と喋る長台詞が後半にあり、数度のリハーサルをする中で、僕は、このシーンがとてつもない名シーンになるのではという予感に震えていた。一発で決めようという全員の緊張感が高まり、いよいよ本番がスタート。夢中で演じながらも、僕はこの奇跡のような場面に自分が立ち会えたことに至福を感じていた。そして、場面が終わろうとする瞬間……長台詞を言い終えた緒形さんがゆっくりと僕の方に向き、万感の思いで見つめ返す僕に向かって、「なあ、利重」と言った。
 みんな、ドリフターズのコントのように、ダーっとつんのめった。本当に、出演者全員、畳の上にダーって。
「なに言ってんですかー、緒形さん!」
「だって、お前の役名、忘れちゃった」
「忘れちゃったじゃないでしょ!忘れちゃったなら『なあ、お前』でも『なあ』だけでもいいでしょー!なんでわざわざ利重なんて言うのー!」
「ごめんなさい」
「ああ、もう!」
 結局、話し合いの結果、そのシーンをもう一度頭から撮り直すことになった。当時はワンシーンを一気に撮りあげるのが常識だったし、最後の「なあ、利重」の部分だけちょこっと撮り直すなんて無粋なこと、みんな真っ平だったので。ただ、やり直しても、もうあそこまでのシーンにはならないんじゃないかと、それだけが気がかりだった。
 でも、本当に驚いたことに、もう一度撮り直したシーンは、さっきよりテンションが落ちたりすることなどまったくなく、前のテイクと微妙に違う、甲乙つけがたい素晴らしいシーンになったのだ。
 緒形さんらしい天然な事件なのだが、僕はやっぱりどこかで、緒形さんはあの時わざと間違えたんじゃないかと思っている。あのシーンを演りながら緒形さんは、どこかに違和感を感じて、「もう一回やりたい」と思ったんじゃないかと。ただ、今演っている芝居がうまくいっていることは間違いなく、撮り終われば絶対にOKが出てしまうことがわかっていたから、その前にわざと間違えちゃおうと思ったんじゃないかと。
 そんなこと聞いたところで、緒形さんはにまーっと笑って「おりぃ、バカだから」と答えるだけなので、真相はわからないのだが。
 こんな風に、緒形さんは、知れば知るほど、掴みきれない魅力が増していく人だった。

(つづく)