あけましておめでとうございます。

 今年一本目の原稿はやはり年がきちんと明けてからと思い、書き初めの気分で今これを書いています。

 平成三十年。今年で五十六歳。今は、帰り道のどの辺を歩いているのかな、と思う。まだしばらく道のりがあるのか、もしかしたらもう帰り着く間際だったりするのか、そればかりは誰にもわからない。いずれにしても、ただ歩くだけだ。いや、ただ歩くんじゃないな。あたりを眺めながら楽しんで歩きたい。

 今年の抱負はなんだろうと、さっきからずっと考えていたんだけど、わかった。たぶん、“人とゆっくり話す年にしたい”ということだと思う。
 年々、やりたいこと、やらなければいけないこと(またはそう思い込んでいること)に気を取られて、まわりをゆっくり眺めたり、何気ない会話をする時間を惜しむようになってないだろうかと思うことがある。大事なことじゃないと話す時間がもったいないとか、勝手に自分の狭い了見で話の価値に優劣をつけたりしてないだろうか。なんにでも興味があって、なんでも知りたかったはずなのに、いつの間にか興味を持つことを忘れて、面白いことが起こる可能性を無駄に捨ててしまっているんじゃあないだろうか。
 そもそも、話の価値に優劣なんかあるはずがないのだ。世界のすべての事柄に価値があるし、もしそうでないのなら、一切の事柄にはおしなべて等しく価値がないのだ。要は感じる心の問題なのだと思う。

 なんでもない会話に感謝することがある。近所の人と天候の話を交わしたり、道端でたまたま行き合った人と言葉をちょっと交わしただけで、硬くなっていた気持ちがふっと救われて元気になることがある。そのたまたまの会話から繋がって、思いもしない面白い話を聞かせてもらえることもある。そんな時、「まだまだ世の中捨てたもんじゃないよなあ」と嬉しくなる。考えてみたら、「面白い話聞かせてくださいよ」なんて質問でいきなり面白い話が出てくることの方が逆に奇跡だ。ということは、なんでもない話を億劫がったせいで、とんでもなく面白い話を逃してしまう可能性もある。
 面白い話と書いたけど、別にすごいエピソードはいらないのだ。波乱万丈のエピソードだけが面白い話じゃない。そんなもの無くたって、普通のなんでもない小さなエピソードの中に宝物が輝いている。よく、「僕の話なんか面白くないですよ」なんて言う人もいるけれど、聞く方が面白いと思えば、それは面白い話なのだ。そしてそれをお互いに面白いと思える人と出会えたら、それはもう最高だ。

 なんでもない会話をしただけで、もうその内容も覚えていないのに、「あの時、話しかけてもらって嬉しかった。そのことは忘れない」とか「あの言葉に励まされて頑張れたところがある」などと何十年も前のことで感謝されることもある。いい話をしたつもりはまったくないからびっくりしてしまうが、昔とても人見知りだった僕には、一方でその気持ちもわかる。
 人見知りというのは、好きな人に対しての方が強く出たりするから、聞きたいことや話したいことがたくさんあるくせに、どう話しかけていいか頭の中でぐるぐるしてしまって、まだ話しかけていないのに胸がどきどきしてしまって、だから、相手から会話の糸口を作ってもらって嬉しかったことがどれだけあったか。そして、たいがい僕の好きな人は、そういう糸口を柔らかく作ってくれる人ばかりだった。面白がっていろいろ聞いてくれて、「へえー」なんて感心してくれて、もうそれが嬉しくて、もっとその人を好きになった。
 本人はただ普通に面白がって聞いているだけでも、そのことが人に幸せを与えることもあるのだ。人は、自分に興味を持ってもらえることが嬉しい。
 だから、なんでもなく人の話を聞くというのは大事だなと思う。
 話の内容より、話を聞くということ自体にまず価値があるんだと思う。話を聞くというのは、私はあなたに興味がありますよというメッセージなのだから。

 三十歳の時に作った「エレファントソング」という映画の中で僕は、松田美由紀演じる主人公のウェイトレスに、「人に話しかけられる人になりたい」と言わせている。かつて精神的にひどい状態にあった時、警備員のおじさんに話しかけてもらったことで気持ちが救われたことを彼女はずっと覚えていて、自分もそんな人になれたらと言う。
 その時のメッセージが、いま自分に返ってきている。だから、今年は、自分からなんでもなく話しかけ、ゆっくりと、興味を持って、人の話をたくさん聞かせてもらいたいと思う。